所信表明

ESSAY

二〇一八年十月。兄が自宅で首を吊って亡くなった。秋の風が心地よい、よく晴れた日曜日の朝だった。こんなに美しい日に、兄はどんな気持ちで死を選んだのだろう。遺書はなかった。だから兄の気持ちはわからない。前の日の夜は眠れたのか、どんな気持ちで首にロープをかけたのか。兄を亡くし、私はいよいよひとりになってしまった。眩しい朝の日差しは、希望をもたらすものではないのか。

私が育った家庭環境は、お世辞にもよいものとは言えない。だからいつも説明が面倒で、周りに話を合わせて嘘ばかりついてきた。でも、ひとりになり、もういいかなと思った。いままで適当なことばかり言ってごめんなさい。はじめましての人も、そうでない人も、私という人間を少しだけ知ってもらえると嬉しい。

一 母のこと

私が物心ついたころから、野口家はめちゃくちゃで最悪だった。父は毎晩ひどく酔って帰ってきては怒鳴り散らし、その姿を見て母はいつもヒステリーを起こしていた。群馬生まれの母は、独身時代は熊谷の八木橋デパートでカネボウの美容部員をしていて、服装やメイクがとにかくど派手だったらしい。東京が好きでよく遊びに行っていたそうだ。そんな母が、熊谷市のはずれにある、前も後ろも右も左も田んぼの土地に嫁に来たのが、そもそも間違いだった。

見渡す限りの田んぼの中で、母は病んだ。友人もいない、頼れる両親もいない。母には父しかいなかった。母は父を異常なほど愛していて、父はそこから逃げるように外に女をつくった。仕事と嘘をついてその女と海外旅行にも行っていた。

私は罵り合う両親が当たり前だと思っていたから、友人の親を見ても「この人たちも毎晩喧嘩するのかな」と密かに思っていて、そうではない家族もあると大人になってから知った。家族とは、すべての感情をさらけ出し、罵り合い、傷つけ合うもので、子どもという存在、結婚という言葉が、憎しみ合うふたりを結びつけるものだと思っていた。少なくともそこには健全な夫婦の姿はなく、いびつで、歪んだ愛情だけが母を生かしていた。

六月のある日、いつものように両親が激しい喧嘩をはじめた。私は「またか」と食卓からその様子を見ていた。母の罵倒にカッとなった父は、母に向かってピアノの椅子を投げた。母はなんとか避けたから怪我はなかったが、当たっていたら大怪我をしていただろう。

翌日、母は、兄と私の三人でよく行っていたスキー場の駐車場で、車に排気ガスを取り込んで自殺をした。私は十五歳だった。この日の出来事はすべて、会話もすべて、はっきりと覚えている。警察からの電話の声も、母の遺体の乾いた舌も、なにもかもが私の心にこびりついてしまった。

母は鬱だったようだ。いま思えば、リビングに大量の薬が置いてあった。

高校受験を控えていた私は毎日学校で必要以上に明るく笑い、夜、自宅のベッドで泣いていた。私がいるのに母は死を選んだ。私という存在は母の生きる理由にはならなかった。母に愛されていると疑わなかった私は、突然、愛情という線をぶつんと切られたような気がして、どこにも繋がらずにぷかぷか飛んで、あてもなくさまよう風船のようだった。いまにもパンと破裂しそうで、危なっかしくて、私は当時をよく生き延びて、いまこうして大人になれたなとつくづく思う。

母の車のダッシュボードには、一九九三年に発売されて話題になっていた『完全自殺マニュアル』が入っていた。排気ガスのせいなのか、一度水につけた紙みたいにベコベコだった。普段、図書館で本を借りていた母だったが、この本は自分で購入したようだ。母は、そこに書かれてある通り、車の窓に目貼りをして、排気口にホースをつけて窓から排ガスを車中に取り込んで死んだ。遺書にはワープロで、父のこと、私の将来のころなど、いろいろなことが書かれていた。最後に「さようなら」と手書きの文字が添えてあった。文字が滲んでいた。母は泣いていたのかもしれない。

私はこの本を恨んではいない。なぜなら、この本がなくても母は死を選んでいたと思うから。悪いのは、母を支えられなかった私を含めた家族のせいだ。

そして私は改めて、本、というものを認識した。母が最後に読んだ本。私の人生を変えた本。本はどうやってできるんだろう。誰がどんな意志で作ったんだろう。そうして私は、太田出版という会社を知った。

二 父のこと

私は父と一度だけ手を繋いだことがある。小学校の学校行事の帰り道の、ただ一度だけだ。父は、私が赤ん坊のときも「誰が抱いたって同じだ、わかりゃしない」と言って、私を抱きたがらなかったと生前の母が言っていた。だから私も父には寄り付かないし、母が亡くなってからは「父のせいで母が死んだ」と思っていたから、より一層、父を憎んだ。

いま思えば、父はひどく心の弱い人だったようだ。嫌なことからは逃げる。嫌なことがあったらお酒を浴びるように飲む。家に居場所がないから、外の居心地のいい場所に逃げる。

母の死後、父は長く勤めていた会社を辞めた。以前から関係のあったスナックの女の紹介で小料理屋をはじめ、母の生命保険でベンツとロレックスを買った。朝方に帰ってきては、昼間に大量の酒を飲み、夜に出かける。そして母が亡くなって三年後、父は倒れた。

病室の痩せこけた父を見て私は泣いた。私が父を三年間責め続けたせいなのか。父は父なりに母の死が堪えていたらしい。当時、妻に自殺された男の心情が想像できるほど、私は大人ではなかった。

そして父は肝硬変で死んだ。私は十九歳、大学一年のときだった。東京で暮らしていた私に、早朝、兄から電話があった。兄は「朝、四時、死亡」とだけいうと、電話を切った。

酷い父親だったのは間違いない。でも、私は顔も中身も父によく似ているように思う。もし父がいまも生きていたら、仲良くなれたかもしれない。「大変だったな」とか言って、一緒に楽しくお酒を飲んでいたかもしれない。残念で仕方ない。

三 大人になること

両親が亡くなると、伯父が私たち兄妹のお金の管理をするようになった。この伯父は、父の葬儀のとき、私と兄を参列者の前に立たせ「この子たちは両親のいない可哀相な子です。私たち大人が支えていきましょう」という最高に胸くそ悪い演説をした。私はこの伯父が嫌いで、一刻も早くこの伯父と縁を切りたいと思っていた。私は就職し、自活できるようになった社会人一年目の夏、「あなたとは縁を切らせてください」と言いに熊谷に行った。伯父は面食らっていたが「わかった」と言って連絡を絶った。

社会人三年目のとき、たまたま太田出版の中途採用があることを知った。中学のときに見た、あの本の会社を一度見てみたいと思った。私は応募をし、面接をし、するすると入社が決まった。入社して、『完全自殺マニュアル』を担当していた落合美砂という編集者を間近に見ることになった。彼女は五十歳前で、酒にだらしなく、普段はとことんルーズで、女っぽくて、面倒くさい、下品極まりない女だった。でも、それでも、いつも仕事になるとハイヒールを履き、背筋がピンと伸びている姿を見ていると、私はいつしか彼女のことが好きになっていた。 彼女みたいになりたいと本気で思っていたし、いまもそう思っている。「太田出版」というブランドの本が好きだったし、なにより居心地が良かった。

私は太田出版で知り合ったライターと結婚をし、会社を辞めた。出産をし、母になり、そして離婚をして、再び、ひとりになった。

別れた夫が育った家庭は、絵に描いたような幸せな家庭で、結婚していたころは、家族全員で新年を祝い、母の日には花を贈り、家族全員で墓参りにも行っていた。私にはこの家族行事というものが、どれもはじめてのことばかりで、いつもぎこちなく過ごしていたが、ひとつひとつ普通の家族の儀式をこなしていけば、普通の家族をつくることができるのだと思っていた。

別居する直前、夏の暑い日に墓参りに行った。高台の見晴らしのいい、美しい緑の中にある墓地で、義父に「理恵さんもこの墓に入るんだよ」と言われたとき、私は、自分の人生の終わりを見せられた気がしてぞっとした。私はここで人生が終わるのか。いや、違う。申し訳ないが、この墓には入りたくない。

結婚をしてからの私はいつも怒っていた。ヒステリックに夫を罵る姿は、私の母そのものだった。どんどん母のようになっていく自分が嫌でしかたなかった。母が囚われていた田舎の塀と、私がいる場所が同じだと気づいたとき、ここにいてはいけない、と家を出た。

子どもの親権は別れた夫がもっている。私は両親がいないから後ろ盾もない。こんな歪んだ女に育てられるより、立派な親をもつ夫に育てられたほうが子どもは幸せだろう。私は母と違って死ぬわけではないからいつでも会える。でも、子どもの心を傷つけることにもなる。全部わかっている。でも、きっと誰にも理解はされない。非難されても仕方ない。でも、この選択しか、私にはできなかった。

四 兄のこと

兄の訃報は突然だった。普段疎遠な伯母から着信があったのをみたとき、九十六歳になる祖母が亡くなったのだと思った。折り返すと、伯母は早口で言った。

「理恵ちゃん、おばあちゃんが亡くなったん。で、将ちゃんも亡くなったんよ」

「おばあちゃんが亡くなったから将ちゃんに電話したんだけど、出なくて、家に行っても出ないからおかしいと思って窓から入ったら、階段で首を吊ってたん」

祖母の死亡時刻は八時五十五分。兄は推定九時。ふたりは同じ日のほぼ同時刻に亡くなった。

二十三年前、母が亡くなったとき、父も私も自分のことで頭がいっぱいだった。兄は感情を表に出さない人で、「お兄ちゃんなんだから」といつも抑圧されてきた。母の死でいちばん深い闇を抱えたのは兄だったことに私は気づいていなかったのだ。

母が亡くなった当時、兄は大学受験を控えていた。母が亡くなって数カ月経った高三の二学期、父のもとに高校から電話があった。兄が学校にずっと来ていないというのだ。兄はたしかに毎日制服を着て、学校に行っていたはずだった。ところが、実際は一日中公園にいたり、自宅に帰ってきていたという。兄の心はボロボロで、自分の進路も、人生も、生きる意味も、わからなくなってしまったようだった。兄は合格した大学にも行かず、引きこもるようになった。

両親が亡くなり、私は東京の大学に行き就職をしたため、兄は熊谷の実家でひとりで暮らしていた。それでも兄は完全な引きこもりというわけではなく、定職にはつかなかったが、たまにアルバイトをして、近所に住む祖母の面倒を見ながら暮らしていた。いつも飄々としていて、「お米いるー?」なんていう軽いメールのやり取りをしていた。祖母は兄を溺愛していたから、祖母と兄はとてもよい関係だったのだと思う。もしかしたら両親を亡くした兄には祖母がすべてだったのかもしれない。

そんな祖母が、高齢で身体を壊して余命いくばくかとなり、亡くなる五日前に親族が病室に呼ばれていたらしい。兄はそこにも行っていて、黙って祖母を見ていたという。そして、奇しくも祖母の死去とほぼ同時刻に、家族の思い出が詰まった家の階段で首を吊った。死亡推定時刻から考えて、兄は祖母の死を知らなかったはずだ。

兄と祖母の葬儀は質素だった。ふたり同時の葬儀は異例で、世間体を考えて人を呼ばなかったのだ。

葬儀で、私は子どもみたいに大声で泣いた。みんなの前で、恥ずかしげもなく、泣き喚いて、棺の前で泣き崩れた。この世で兄を想って泣けるのは私しかいないと思ったからだ。社会と向き合わず、友人もいなかった兄が、私のたったひとりの家族である兄が、たしかに生きた証を、誰かに愛されていたのだということを、ひとりでも多くの人に知って欲しかった。

兄が抱えていた哀しみはわからない。私は兄の生きる理由にもなれなかった。母だけでなく、兄の心にも寄り添えなかった。家族とはなんだろう。すべてをわかり合える存在ではないのか。心の拠り所ではないのか。心を通じ合わせ、助け合い、すべてを許し合うものではないのか。私には家族というものがわからない。

 『完全自殺マニュアル』は、たしかに私を変えた。私の太田出版へのこだわりは、母から受けた呪縛だった。兄が自殺をし、再びこの本が私の目の前に突きつけられた。そして太田出版を再び離れることになると、この二十三年間で私に起きたことすべてが、ふっと消えていくような気がした。あまりにもいろいろなことが起こりすぎて、すべてがバカらしく思えてきたというのもある。

「野口さんの実家ってどうなの?」、「うちは適当だから。私に関心ないんだよね」みたいな嘘をつくのも、もういいのかなと思えてきた。

私はどうして嘘をついてきたのだろう。何から身を守ってきたのだろう。私の人生はもう書き換えようがない。恥ずべきことは何もしていない。母と兄が自殺して、父も死んだ。離婚をし、子どもの親権を手放してひとりになった。それが、いまの私で間違いないのだ。

五 おわりに

眩しい朝の光の中で、兄が最後に見た希望は家族だったのかもしれない。大昔の日曜日、家族みんなで森林公園に行ったことがある。日曜日の朝に死を選んだ兄は、両親に会えただろうか。

兄の本当の気持ちはわからない。死んで両親に会えるわけがない。こんな妄想は私自身を慰める嘘だとわかっている。でも、これは私がこれから強く生きていくために必要な嘘なのだ。

兄が最後に見た景色は、私たち兄妹が生まれ育った実家の階段だった。

階段の下から夕飯ができたと呼ぶ母の声が聞こえる。兄妹は二階の部屋から「はーい」と返事をして、階段をバタバタと降りてくる。庭ではダルメシアンという大型犬を三頭飼っていて、父の車のエンジン音が聞こえると大きな鳴き声で父の帰りを教えてくれた。母はガーデニングが趣味で庭はいつでも美しかった。

私には家族がいた。いつも家族はバラバラだったけど、そういう家族みたいな時間もたしかにあったのだ。家族とはなんなのだろう。私にはわからない。でも、みんなに会いたいと思う。

お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。お兄ちゃんに会いたい。 さみしくてさみしくて、さみしくてさみしくて、本当はもう耐えられそうにない。手を握って欲しい。抱きしめて欲しい。名前を呼んで欲しい。声が聞きたい。四人で顔を見合わせて笑ってみたい。平凡でいいから、普通でいいから、あの家でもう一度、家族を。

私が欲しかったのは、自分が失った家族だった。自分で家族を築いても、それはあの家族ではなかった。父がいて、母がいて、兄がいた、あの家族への想いが、いま私を生かしている。

私の人生を聞いて、どう思うだろう。可哀想に思うだろうか。別に哀れんで欲しいわけではない。遅かれ早かれ人は死ぬのだし、私にはそのピークが少し早く来ただけだと思っている。私はもうすぐ三十八歳になる。莫大な土地を相続し、親の介護の心配もない。あとの人生は気楽なものだ。それでも、ときどき、朝日が眩しすぎて、前が見えなくなって、困る。でも私はまだ大丈夫だ。自分の足で立って生きていくのは、なんて清々しいのだろう。

野口理恵
1981年熊谷市生まれ、rn press代表。編集者。

2021.01.22